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Factory Records


 英国有数の大都市マンチェスター。 それはビートルズの故郷リヴァプールやパンク・ロックの震源地であるロンドンと比べると、当時音楽的にはまだまだ後進都市であった。 だが、そんな中にパンク・ムーヴメントが掲げた 「自由」 と 「反権威」 の精神を受け継ぎ、 多数の人々を巻き込みながら大きなうねりとなって、マンチェスターを時の都へと変貌させたインディ・レーベルが存在した。
 てな訳で、レーベル探行の第二回は、パンク後の焼け野原となった英国音楽シーンに盛大な花火を打ち上げ、 そして鮮やかに散っていったファクトリー・レコードの栄光と挫折の今昔物語である。

1、物語の序章

 まずはファクトリー・レコード設立に立ち会った人物をご紹介。 レーベルのオーナーであり中心人物であったトニー・ウィルソン ( Tony Wilson ) は、 マンチェスターのテレビ局グラナダTVで 「 So It Goes 」 という音楽番組の司会をやっていたジャーナリスト。 「 So It Goes 」 では Sex Pistols や The Clash などのパンク・ロックを中心に新しく刺激的な音楽を紹介していたが、 彼はテレビ界の旧態依然とした体質に魅力を感じなくなり、番組を終了して相棒のアラン・エラスムス ( Alan Erasmus ) とともに 自分の好きなアーティストだけを集めたライブ・イベント 「ファクトリー・クラブ」 をオープンする。1978年のことだ。
 翌年にはクラブの常連アーティストの楽曲を集めたコンピレーション盤 『 A Factory Sample 』 を発売。 こうして、ファクトリーはアーティストを抱えたインディ・レーベルとして回転し始める。 トニー・ウィルソンは当時の先鋭プロデューサー、マーティン・ハネット ( Martin Hannett ) を招き入れると同時に、 レコードのジャケットなどのビジュアル面担当には、地元のアートスクールで学んでいたピーター・サヴィル ( Peter Saville ) を起用。 こうして、トニー、アラン、マーティン、ピーターの4人はレーベル共同運営者として、未知なるニューウェイヴの大海原へと乗り出していく。
 ファクトリーは旧来のレーベル運営の常識を超えた、アーティスト側に有利な契約・版権システムを敷き、 アーティストたちの自由な制作活動を支援した。 また、リリースした作品それぞれにカタログ番号を付していく試みも当時としては画期的で、 番号は音楽作品以外にも与えられ、記念すべき FAC 1 はファクトリー・クラブのポスターだったりする。

2、"ネクラ" ポストパンクな面々

 初期ファクトリーを代表するアーティストは暗くて地味なポストパンク系ばかり。 彼らのサウンドからはマンチェスターの冷たい空気が伝わってくるかのようで、後のマッドチェスターの熱狂ぶりが嘘みたいだ。 中でもイアン・カーティス率いる Joy Division の存在感と個性は別格で、音楽シーンから一目置かれる存在だった。



Joy Division / Unknown Pleasures (1979)

 マーティン・ハネットのプロデュースによる 1st アルバム。 本作はファクトリーにとって記念すべき初めてのスタジオ・アルバムで、カタログ番号は FAC 10 。次作と違ってセールス的には成功しなかったが、 ネクラ一直線の絶望型ポスト・パンク・サウンドには他の追随を許さない圧倒的な凄みが漲っており、後のアーティストに多大な影響を与え続ける不朽の名盤。 ボーカルのイアン・カーティスは 2nd アルバム 『 Closer 』 を残して首吊り自殺を遂げてしまい、バンドは消滅。 しかしこれは伝説の序章に過ぎず、残された男たちは New Order を結成し、ファクトリーの顔としてシーンに長らく君臨することになる。



The Durutti Column / The Return Of The Durutti Column (1980)

 ギタリスト、ヴィニ・ライリー ( Vini Reilly ) による一人プロジェクトの 1st アルバム。 チープなリズムボックスの上を一本のギターフレーズが自由気ままに漂う、心象風景のようなインストゥルメンタル。 瑞々しいクリアーギターにはエコーが効果的に施され、やはりプロデューサーであるマーティン・ハネットの手腕が光る。 なおこのアルバム、初回ジャケットはなんと紙やすりで出来ていて、一緒に棚に収納すると隣のアルバムが傷だらけになってしまうのだ(笑)  音は穏やかでも心意気はパンキッシュって訳だ。 彼もファクトリーの看板アーティストで、地味ながらも現在に至るまで息の長い活動を繰り広げている。



A Certain Ratio / To Each... (1981)

 トニー・ウィルソンの後ろ盾でデビューしたバンドの 1st アルバム。 次作以降は陽気なラテン系ポップ・バンドへと音楽性を変えて人気を確立するが、 このアルバムに限っては廃墟の町に鳴り響くような暗黒ファンク・ロック。 ホーンの音色やリズミカルなパーカッションをフィーチャーしながらも、殺伐とした薄気味悪ささえ感じさせる混沌サウンドは唯一無比。 ちょうど Joy Division がファンクをやっているようなイメージで、くぐもったボーカルの声質もイアン・カーティスに似てます。



Section 25 / Always Now (1981)

 キャシディー兄弟によるデュオの 1st アルバム。 色味に乏しい退廃的なギターサウンドに、平坦なリズムと曲展開、そして無表情に声を上げるボーカル。まるで死人が生かされているようなポストパンクで、 とことん救われない陰気ムードがやはり Joy Divison 直系。 しかし New Order の成功に触発されたのか、後の作品ではダンサブルな志向を強めていくらしい。

 ・・・さて、こうして並べてみると、いずれもダークでダウナーな性格を持ち味としながらも、 後の歴史が示すように、どのバンドにも潜在的にダンサブル化への遺伝子が組み込まれているのがファクトリーというレーベルを物語っているようで興味深い。

3、ハシエンダ建立

 このように初期のアーティストが集まり 「ソフト」 が整うと、今度は音楽を供給する 「ハード」 が必要となる。 1980年にファクトリーはベルギーのクレスプキュール・レーベルと共同でファクトリー・ベネルクス ( Factory Benelux ) を立ち上げると同時に、 アメリカでの配給のためにファクトリー US ( Factory US ) を設立するなど、海外進出も強化。 その一方で地元マンチェスターに念願のクラブハウス 「ハシエンダ」 を1982年にオープンさせ (カタログ番号 FAC 51 )、 ファクトリーの所属アーティストを盛んにプロモーションしていった。
 ハシエンダはリーズナブルな価格設定と刺激的な音楽でマンチェスターの若者たちの支持を集めるようになったが、 音楽機材やアーティストのギャラなどで経費はかさむ一方。 ハシエンダは単体では慢性的な赤字経営を余儀なくされ、そのことが後の破産の遠因となっていくのだ。 また、ハシエンダ建設に伴う莫大な資金をめぐって、プロデューサーのマーティン・ハネットがトニーら他のメンバーと対立。 マーティン・ハネットはファクトリーを脱退し、後に自らが手掛けた音楽に対する権利をめぐって訴訟を起こしている。 (結果的にファクトリーが権利を保持するために相応の金額をマーティン・ハネットに支払うことで決着。)

4、ターニングポイント

 ファクトリーにとって、レーベルの看板アーティスト Joy Division のフロントマンの自殺は痛手だった。 しかし彼らは怯むことなく、当時最先端のダンス・カルチャーとロックを融合した新しいサウンドを提示し、 英国の音楽シーンをリードする存在となっていく。



New Order / Blue Monday (1983)

 12インチ・シングルとしては空前の大ヒットを記録し、 一躍ニュー・オーダーを一介のポストパンク・バンドからディスコ界のスターダムへと押し上げた83年発表のシングル曲 「ブルー・マンデー」 。 特徴的なビートにクールな歌メロが乗るサウンドは今聴いても斬新で、後に様々なアーティストによってカバーされる。 だが、その実はボーカルのバーナード・サムナーがイアン・カーティスの自殺を発見したあの日の月曜日の心境を吐露したもの。 亡き友人に捧げる暗黒のダンス・ミュージックなのだ。
 なお、ピーター・サヴィルが手掛けたフロッピー・ディスクを模したオリジナル・ジャケットは、 デザイン的な型抜きの加工と、黒色を出すためにあえて黒インクを使わずカラーインクを用いたことで製作コストがかさみ、 結果としてシングルが1枚売れるごとに数ペンスの損失を生み出すはめに。何やってんだか・・・。



Happy Mondays / Forty Five E.P. (1985)

 バンド名をニュー・オーダーの名曲 「ブルー・マンデイ」 から文字って付けられたハッピー・マンデーズのデビュー EP 。 音の方は、テキトーで能天気で素人臭さ丸出しのごきげんインディ・ロック。
 バンドのメンバーはボーカルのショーンにドラムのゲイリー、そしてヤクの売人だったベズの3人。 ベズは正式メンバーにもかかわらず、ステージ上では歌も演奏もやらず音楽的貢献度はゼロで、曲に合わせてヘナヘナ踊るだけのマスコット役。 そんなおバカっぷりも彼らの魅力なのだ。 あ、でもときどきマラカスを演奏するらしい(笑)
 デビュー前のハッピー・マンデーズは、ある日開催されたファクトリーのバンド大会に出場して最下位という結果に甘んじた。 でもそんな彼らにオーナーのトニー・ウィルソンは目を付けレーベル契約を申し出た。 そしてその予感は見事的中し、ハッピー・マンデーズはニュー・オーダーに続くファクトリー第2の看板バンドへと成長することになる。 が、しかし・・・。



The Wake / Here Comes Everybody (1985)

 知名度は低いがファクトリーの名脇役バンドといえるザ・ウェイクの 2nd アルバム。 マイルドなギターサウンドに甘い歌メロが溶け込む疾走ネオアコといった趣で、 フワリと漂うシンセサイザーが印象的な、こちらもニュー・オーダーの遺伝子を受け継ぐアーティスト。 そこそこのスマッシュ・ヒットを放ちながら、1994年まで活動した。

5、花開くマッドチェスター

 1980年代後半になると、ポストパンク以降のロックとレイヴ文化の融合が加速していき、 ハウス由来の4つ打ちビートが支配する 「踊れるロック・ミュージック」 が誕生する。 サイケデリックなサウンドとドラッグに彩られた享楽的なダンス・カルチャーは大旋風を巻き起こし、 こうした新しいスタイルは流行の中心地マンチェスターにちなんで 「マッドチェスター」 と呼ばれた。 ストーン・ローゼズやプライマル・スクリームといったアーティストも 「マッドチェスター」 の中から登場したが、 ニュー・オーダーとハッピー・マンデーズを擁するファクトリー・レコードはトレンドの発信源となり、 ハシエンダはビートの至福を求める人々の聖地となった。



New Order / Technique (1989)

 バレアリックの本場であり 「セカンド・サマー・オブ・ラブ」 の生まれ故郷であるスペインのイビザ島にて (夜遊び忙しく) レコーディングされたニュー・オーダーの 5th アルバム。 これまでの彼らの特徴でもあったメランコリックな歌メロと開放的なダンス・サウンドが融合した本作は、マッドチェスター吹き荒れるシーンと相まって大ヒット。 ニュー・オーダーとファクトリー・レコードにとって初めての全英 No.1 アルバムとなり、アシッド・ハウスの記念碑的作品となった。
 ニューウェイヴとファクトリーの生き証人として頑張っていた彼らも、とうとう解散?



Happy Mondays / Pills 'n' Thrills and Bellyaches (1990)

 「 Kinky Afro 」 や 「 Step On 」 などの大ヒット・シングルを放ち、一躍シーンの中心に躍り出たハッピー・マンデーズの代表作 3rd アルバム。 ショーンのシャブ臭いシワシワ・ボーカルにヘロヘロのメロディー、 楽観的なムードとゆる〜いグルーヴをお供に夜通し踊り暮れるB級サウンドは、しかし一級品のエンターテイメント。 ニュー・オーダーの 『 Technique 』 が実力に裏付けされた必然の大ヒットだったのに対し、 ハッピー・マンデーズの登場はシーンに便乗したドサクサ劇という印象が付きまとうけど、 彼らこそ最も 「マッドチェスター」 の精神を体現していたバンドだった。
 この後ファクトリーと共倒れになり1993年に解散した彼らも、1999年には借金返済を目的に再結成。彼ららしいねえ。

6、鳴り止まぬ不協和音

 流行の火付けとしてその名を世界に知らしめたファクトリー・レコードは、 勢いのままバーやショップの新店舗を次々とオープンさせ、1990年9月には遅ればせながら念願の新社屋を建設。 (それまでの本社機能はアラン・エラスムスのアパート内に設置されていた。) このようにして、数々のヒット作品で捻出した資金は拡大一辺倒のレーベル経営と、あとハシエンダ運営の莫大な費用に流れていくばかりだった。 稼ぎ頭であったニュー・オーダーとハッピー・マンデーズの新作もレコーディング作業が難航して金ばかり出る出る、財政面はまさに火の車状態。
 そして、この頃からハシエンダにも不穏な空気が渦巻くようになる。 クラブ内でコカインなどのドラッグが蔓延る光景は昔からのものだったが、 人気の過熱とともにギャング・マフィアがハシエンダに目を付けるようになり、銃を帯びた物騒な人たちがうろつきだす。 客の安全は脅かされるようになり、ついには警察沙汰となる。 ハシエンダは一時的な営業停止処分を余儀なくされ、そのイメージはレイヴの都から悪の巣窟へと崩れ始めていった。
 また、ハッピー・マンデーズの 2nd アルバムをプロデュースするなど一時的にファクトリーと寄りを戻していたマーティン・ハネットも、 日ごろの不摂生がたたって1991年4月に死去。まさに一つの時代の終わりを告げるかのようだった。

7、夢の終焉

 財政的に困窮していたファクトリーは身売り先を探していた。1992年に入ると皮肉にも "ロンドン" レコードに回収されるという噂が流れたが、 設立当初のアーティスト側に有利となる契約システムがあだとなり、話はお流れに。 1992年11月、ハッピー・マンデーズのシングル曲 「 Sunshine And Love 」 を最後のリリース作品として、 50万ポンドの借金を抱えたファクトリーはついに破産した。

 実はストーリーにはまだ続きがある。1994年、トニー・ウィルソンはかつての再現を試みレーベルを復活させる。その名も 「ファクトリー2」 。 だがサクセス・ストーリーに第二章は存在しない。「ファクトリー2」 は1997年に閉店、同年にハシエンダも閉鎖された。 この後もテレビ局に勤めていたトニー・ウィルソンは2007年に帰らぬ人となり、その棺にはカタログ番号 FAC 501 が与えられた。(オイ)

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 ・・・まあこんな感じです。ちなみに、ファクトリーについてもう少し詳しく知りたい人は、2002年に公開された映画 『 24アワー・パーティ・ピープル 』 がオススメ。 トニー・ウィルソンの半生とファクトリーの盛衰を絡めて描いた創作ドキュメンタリー調(?)で、スタイリッシュな映像と音楽と、 あとおバカな会話に彩られた内容は、ポストパンク/ニューウェイヴ好きにはたまらないはず。

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