Ian Astbury イアン・アストベリー イアン・アストベリーは英国の " ハードロックバンド " The Cult の リヴァプールを擁するマージーサイド州生まれのイアン・アストベリーは10代の多くをカナダで過ごしていたが、 彼はそこでネイティヴ・アメリカンの生活様式に出会う。 フェイス・ペインティング、鷹の羽、装飾的なアクセサリー・・・そんなエキゾチックな異文化に大きな影響を受けたことは、 左の写真、すなわちバリバリのインディアンルックを装う若き日のイアンの姿を見れば一目瞭然だ。 ちなみに The Cult の前身のバンドの名前 「 Southern Death Cult 」 とは、ミシシッピ周辺のネイティヴ・アメリカンの文化からとった言葉である。 彼は16歳のときに一時的にカナダの軍隊に入るが、17歳のときに母がこの世を去ると、 仕事で家を空けがちな父に代わって兄弟の面倒をみながら各地を転々とする生活が続いていった。 そんな中、テレビで放映された海の向こうのパンクバンド Sex Pistols の存在は新鮮な衝撃をもたらし、次第にミュージシャンとしてのキャリアを志すようになる。 しばらく後、彼はカナダから英国に戻り、グラスゴー → リヴァプール → ベルファスト → ブラッドフォードと次々と街を移りながら、アマチュアのバンド活動に身を投じていく。 自分の名前を Ian Lindsay と改めていたのも、ちょうどその頃だ。 イアンはある日、解散直前だったパンクバンド Generation X のライブを見にシェフィールドまで赴く。 そこでボーカルのビリー・アイドルに声をかけられたイアンは、ライブに参加させて欲しいと頼むと、ビリーも快く承諾。 これは裏方として有名バンドに関わった貴重な体験としての当時のエピソードだ。 イアンはブラッドフォードに腰を据えると、 ミュージシャンとしての成功を夢見て遂に本格的な自分のバンド Southern Death Cult を結成する。1981年10月のことだ。 当初バンドは楽曲のレパートリーもたった6曲と乏しく、デモテープをレコード会社に送っては断られるの連続だった。 しかし1981年12月にロンドンでのライヴ・デビューを飾ると徐々に頭角を現し、 翌年には Theatre Of Hate とのジョイント・ツアーや Bauhaus のツアーのサポートバンドを務めるなど、ポジパン界の新星として注目を集めるようになる。 ところが、ここでイアンがバンドを脱退し、1983年2月に Southern Death Cult は解散。 残りのメンバーたちが Getting The Fear を結成する一方、イアンは Theatre Of Hate のギタリストであったビリー・ダフィーらと組んで Death Cult を結成。 セルフタイトルの EP の発表後、バンド名を The Cult とさらに短く改め 1st アルバム 『 Dreamtime 』 をリリースする。 このアルバムからのシングル曲 「 Spirit Walker 」 はポジパン界屈指の名曲で、インディチャートで1位を獲得している。 以上ここまでがポジパン・アーティストとしてのイアン・アストベリーの記録である。次作 2nd アルバムからはハードロック的な音楽性を強めていき、 リック・ルービンによるプロデュースの 3rd アルバム 『 Electric 』 ではイアンのハイトーンボーカルと共に新世代のハードロックバンドとしてそのスタイルを完全に確立。 その後の商業ベースでの成功の下地となる。 90年代に入るとオルタナ/グランジという黒船襲来の影響をもろに受け、95年に The Cult は一旦解散するが、99年に再結成。 スタジオアルバムも順調にリリースしており、これからもポジパン時代の生証人として頑張ってほしい。 Billy Duffy (ビリー・ダフィー) Theatre Of Hate 解散後、イアン・アストベリーと共に The Cult を結成したギタリスト。イアンと共にソング・ライティングを掛け持つバンドの2枚看板であり、The Cult の再結成後もその存在感は健在。 Kirk Brandon (カーク・ブランドン) Theatre Of Hate および Spear Of Destiny のボーカル。Theatre Of Hate 時代はイアン率いる Southern Death Cult とのジョイント・ツアーも行っていた。 Craig Adams (クレイグ・アダムス) The Sisters Of Mercy → The Mission を経て、1993年に The Cult に加入したベーシスト。解散前の The Cult でイアンの同僚だった。 |